Tuesday, November 29, 2011

シャリア法では殺人にならない名誉殺人とカナダの多文化主義

2009年6月30日、ナイアガラ旅行の帰途の家族の乗った車が、キングストンで川に転落し、4人の女性が命を落とした。死亡した4人のうち、3人はモントリオール在住のモハマド・シャフィアの娘で、上から19、17、13歳、残るひとりはシャフィアの第一の妻で、家族のなかでは「叔母」とされていた女性であった。


警察は直ちに別の車で移動していたモハマド・シャフィアと彼の妻、息子の関与を疑い、調査に乗り出した。現在、この裁判が進行するにつれて、この事件の全容が明らかになっている。Honour killing(名誉殺人)、子ども虐待、移民家庭における文化的軋轢という、マルチカルチャー社会に特有の興味深い問題を浮かび上がらせる。


検察側の見方はこうである。アフガニスタン生まれのビジネスマン、モハマド・シャフィアは、伝統的なイスラム教に基づく価値観を娘に押し付けており、娘はそれに抵抗、家庭は崩壊していたという。死亡した娘3人はカナダ生まれのティーンエイジャーとして、西洋スタイルの生活を望み、イスラム教徒のヘッドギアであるヒジャブ着用を拒否(あるいは、家を出るとすぐに取る)、禁じられているボーイフレンドをつくり、メイクアップをしていたことから、父親の怒りを買っていたという。

最も反抗的な長女ザイナブは、パキスタン系のボーイフレンド(父親は同じトライブの結婚相手以外は認めないという立場)をつくり、家族の目を盗んでデートを繰り返していた。家出の結果、女性用シェルターにも入ったこともあるという。また、2番目のサハーは学校のカウンセラーに家庭での父親との問題を理由に自殺をほのめかしており、福祉サービスを提供する組織が介入したが、父親の怒りを恐れて、証言を撤回した結果、福祉関係者もそれ以上の介入はしなかったという。


報道によれば、父親モハマドは息子に娘の監視をさせたり、ボーイフレンドと接触させないように学校を辞めさせようとまでしていた。また、何度となく娘たちがイスラム教的価値観に基づいた生活スタイルを破棄していることを批判し、家族の名誉を汚したこと、死をもってつぐなう以外に道はない、というコメントをしていたという。こうした経緯から、事故による溺死と見せかけ、妻と息子と共謀して娘3人を計画的に殺害した(子どものできなかった最初の妻は運悪く道連れになった・・・)、というのが検察側の主張である。


妻のヤヤは、夫には絶対服従で自分の考えで行動するということはなかったようだ。公判中、自分の娘たちの死の映像を見ることを拒否し、すすり泣きをしていることが多いと報道されている。また、「叔母」とされている女性がシャフィアの第一の妻であったことから、ポリガミー(多妻制度)という問題も浮かび上がらせている。


どこの家庭でも世代間のギャップによる誤解や衝突はあるものだが、移民家庭ではこれに文化的な違いからくる軋轢という要因が加わることがあり、私もこうした話はときどき耳にする。とくに親が強い宗教観や価値観をもっている場合には、子どもたちが「西洋的」と見え、毎日の生活のなかで「文化の衝突」の縮図が展開される。これが悪化した最悪のケースがHonour killingで、トロント周辺では年に1度はこうしたケースが表面化しているのが現状である。


もちろん、警察や検察は「honour killing(名誉殺人)」という言葉は使わない。カナダ刑法にはこの言葉はないため、彼らは注意深くこの言葉を避けている。しかし、事件に至った経緯が明るみになるにつれ、この事件を最もよく表現する言葉は「名誉殺人」であることは誰の目にも明らかである。


イスラム圏では、シャリア法のもとで家族の名誉を汚した女性メンバーの殺害は「殺人」とはみなされない。たとえば、結婚前に性的関係を持った娘や不倫関係にある妻、あるいは被害者としてレイプを受けた女性メンバーなどの存在は家族の恥とされ、これを償う唯一の方法としてhonour killing(名誉殺人)が許されている。


名誉殺人としか見えない事件が起こるたびに、私はこの事件を犯した男性たちの意識がどうなっているのかと、怒り心頭、メラメラと頭にくる。正直いって、カナダ社会の一員として、こうした女性蔑視の考え方は国境をまたいだ時に捨ててほしい、と思うが、政治的に正しい言い方ではないのは分かっているので、言いはしない。カナダ人にとっては、男女平等という考えは至極当然で、とりわけ女性を男性の従属物とみなすような価値観は、感覚的になじまない。この事件だって、平均的カナダ人の感覚からするとまったく理解できないだろう。


しかし、カナダのメディアはこの問題を、社会全体が短絡的な移民バッシングへと導かれないよう、非常に注意深く扱っている、という気がする。新聞のコメント欄には、コミュニティ内部をよく知る関係者や専門家が事件について多角的なコメントが寄せられる。社説でもこうした関係者の意見をもとに、問題が深く掘り下げられる。私がカナダの多文化主義の懐の深さを感じるのは、こんなときだ。文化間の軋轢に起因する問題や事件が起これば、まずはコミュニティ内で問題に関する議論が起きる。そこを飛び越して社会全体でこの問題を議論すると、問題の根本的解決にならないどころか、コミュニティそのものを誤解、さらには移民バッシングへと発展する恐れもある。なので、メディアは非常に慎重になる。カナダの多文化主義のカギとなっているのは、このメディアの慎重さだと思う。そして、それを支えているのは、言うまでもなく国民の他の文化に対する寛容性に他ならない。

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